LOGIN 旅立ちの朝、帝都は薄い朝
「本当に、私も行ってはいけませんの?」
見送りに出てきた
「女学校があるだろう」
「一日や二日くらい」「駄目だ」
「小夜さん。遊びに参るわけではございませんから」
「分かっておりますけれど……」小夜は唇を尖らせた。
それから、ふと麗香の耳元へ顔を寄せる。「でも、麗香姉様」
「はい?」「兄様とお二人でお泊まりになるのは、初めてでしょう?」「――っ」麗香の肩が
滝江の家を出ると、初夏の日差しが眩しかった。 麗香は目を細める。「麗香」 探すより先に、声がした。 顔を上げると、少し離れた木陰に、朔が立っていた。 その隣には清雅もいる。「……朔様」 名を呼んだ途端、胸の奥で張りつめていたものが、ふっと緩んだ。 朔がこちらへ歩いてくる。「終わったか」「はい」「そうか」 それだけだった。 何を聞いたかも、何が分かったかも。 朔は、何一つ尋ねなかった。 きっと、麗香が自分から話すまで待ってくれるのだ。 そう思ったら――。「朔様」「何だ」 麗香は一歩、彼へ近づいた。「少しだけ……」 そこまで言って、言葉が止まる。 どうしてほしいのか、自分でも、うまく言えなかった。 ただ。今は、この人の近くにいたい。 気づけば、麗香は朔の胸へ額を預けていた。「……麗香?」「申し訳ございません」「なぜ謝る」「分かりません……」 朔の身体が僅かに強張っている。 けれど、麗香を押し返しはしなかった。「……肩を抱いてもいいか」 低い声が、頭の上から落ちてきた。 麗香は目を閉じた。「……はい」 今度は、迷わなかった。 背へ腕が回る。 ゆっくりと、壊れ物でも扱うように。 麗香も、朔の着物をそっと掴んだ。 温かい。「……少し、このままで」「ああ」 朔の腕に、ほんの少しだけ力が籠もった。 麗香は目を閉じた。 母が何を望んでいたのかは、まだ分からない。 けれど、母が自分を愛してくれたことだけは分かる。 そして今、自分が何を望んでいるのかも。 少なくとも、この瞬間だけは分かっていた。「……そろそろ、僕の存在を思い出してもらってもいいかな」「――っ」 麗香は勢いよく朔から離れた。 少し離れたところで、清雅が困ったように笑っている。「すまないね。できればもう少し空気を読んでいたかったんだけど」「清雅」「はいはい。睨まないでくれ」 麗香は顔が熱くなるのを感じた。「も、申し訳ございません、清雅様……!」「麗香さんが謝ることじゃないよ。むしろ僕が邪魔をした側だから。――それで」 清雅の表情が少しだけ真面目になる。「聞きたいことは聞けたかい?」「……はい」 麗香は頷いた。「すべてではございません。でも、母がどのような娘だった
翌朝。 約束どおり、麗香は朔と川沿いを歩いた。 山あいの朝は涼しく、初夏の日差しもまだ柔らかい。 川面に朝の光がきらきらと揺れ、道の脇には名も知らぬ白い花が咲いていた。「綺麗ですね」「ああ」 それだけの会話だった。 けれど麗香には、それで十分だった。 隣を歩く朔の足音を聞いている間だけは、不思議とこの先のことではなく、今この瞬間の景色を見ることができた。◇ 滝江の家は、宿から自動車でしばらく走った、山裾の集落にあった。 古い日本家屋だった。 門の脇には青々とした柿の木が一本。 華族の邸宅とは比べるべくもない小さな家だが、庭も玄関もよく手入れされている。「ここだよ」 清雅が言った。 麗香は小さく息を吸った。 隣の朔を見上げる。「……参ります」「ああ」 朔は、それ以上何も言わなかった。 玄関が開いた。「御影様でいらっしゃいますか」 出てきたのは、五十ほどの女だった。「母がお待ちしております。どうぞ」 麗香が一歩進む。 朔と清雅は動かない。 麗香は一度だけ振り返った。 朔と目が合う。「行ってこい」「……はい」 麗香は意を決し、門へと足を踏み入れた。◇ 通された座敷には、一人の老女が座っていた。 髪には白いものが多く混じっている。 細い身体を地味な着物で包み、背筋を伸ばして座っていた。「母です」 案内してくれた女が告げる。「お客様がお見えですよ」 老女――滝江が顔を上げた。 麗香を見る。「……」 その目が、大きく見開かれた。「…&hell
低い声が、遠くから聞こえた。「麗香。着くぞ」「……はい」 返事をしてから、麗香はゆっくりと目を開いた。 最初に見えたのは、見慣れない布地だった。 濃い色の着物。 その向こうに、窓から差し込む初夏の光。「……」 そして。 自分の頬が、朔の肩へ乗っている。「――っ」 麗香は勢いよく身体を起こした。「も、申し訳ございません!」「別に構わん」「起こしてくださればよろしかったのに……」「よく寝ていたからな」 朔は何でもないことのように答える。 麗香は熱くなった頬を隠すように窓へ顔を向けた。 いつの間にか、景色はすっかり変わっている。 広々とした田畑は少なくなり、窓の向こうには深い緑をまとった山々が迫っていた。汽車は山肌を縫うように進み、時折、木立の隙間から川の流れが銀色に光って見える。「よく眠れたかい?」 突然、通路側から声がした。 振り返ると、清雅が実に楽しそうな顔をしていた。「……はい」「それはよかった」 やがて汽笛が長く鳴った。 速度が落ちていく。 目的地が近いのだ。◇ 駅を降りると、空気の匂いが違った。「……まあ」 麗香は思わず声を漏らした。 山から降りてくる風に、湿った土と青葉の香りが混じっている。 帝都にも庭園や木々はあるが、ここでは緑の方が人の暮らしを包んでいるようだった。 小さな駅舎の向こうには山並みが連なり、その麓に瓦屋根の家々が並んでいる。「お荷物をお運び致します」 同行してきた女中頭の志乃と若い家人が、すでに荷物をまとめている。 先方を怯えさせぬよう、供は必要最低限にしていた
旅立ちの朝、帝都は薄い朝靄に包まれていた。 初夏とはいえ、日の昇りきらないうちの空気にはまだ涼しさが残っている。 御影家の玄関先には、すでに自動車が待っていた。 大きな荷物は昨夜のうちにまとめられ、先に使用人の手で積み込まれている。「本当に、私も行ってはいけませんの?」 見送りに出てきた小夜が、いかにも残念そうな顔をした。「女学校があるだろう」「一日や二日くらい」「駄目だ」 朔が即座に切り捨てる。 麗香は思わず笑ってしまった。「小夜さん。遊びに参るわけではございませんから」「分かっておりますけれど……」 小夜は唇を尖らせた。 それから、ふと麗香の耳元へ顔を寄せる。「でも、麗香姉様」「はい?」「兄様とお二人でお泊まりになるのは、初めてでしょう?」「――っ」 麗香の肩が跳ねた。「き、清雅様もご一緒です」「汽車では、でしょう?」 小夜がにっこり笑う。「宿では、お二人はご夫婦なのですものね」「小夜さん!」「何を話している」 少し離れたところから、朔の声が飛んできた。「何でもございませんわ」「何でもございません!」 声が重なった。 朔が怪訝そうに眉を寄せる。 小夜だけが、いかにも楽しそうだった。◇ 帝都の停車場は、朝早くから人で溢れていた。 煤の匂い。 蒸気の白い煙。 荷物を運ぶ赤帽の声に、発車を告げる鐘。 高い天井の下をいくつもの音が反響し、普段の華族社会とはまるで違う活気に満ちている。「麗香さん、こちらだよ」 先に到着していた清雅が手を上げた。「おはようございます、清雅様」「おはよう。朝から悪いね」「
新たな知らせを持ってきたのは、やはり清雅だった。「新たな手がかりが見つかったよ」 御影家の居間へ通されるなり、挨拶もそこそこにそう告げた彼の顔を見て、麗香は思わず膝の上で指を組んだ。 麗香の隣では、朔も黙って清雅を見ている。 桜の季節は過ぎ、帝都には初夏が訪れていた。開け放たれた窓から吹き込む風が、庭の青葉を揺らし、瑞々しい緑の香りを部屋の中まで運んでくる。「榊原翁の話を聞いてから、宮内省の記録を直接追うのは一度やめたんだ。あそこを下手に掘れば、誰が何を探っているのか相手に知らせることになりかねないからね」 清雅は卓上へ一冊の手帳を置いた。「だから、人を探した」「人を?」「麗香さんのお母上が、桐生家へ入る前のことを知っている人だよ」 麗香の呼吸が止まった。 これまで調べてきたのは、すべて記録だった。 けれど、どれだけ探しても、桐生家へ嫁ぐ以前の母の姿は霧の向こうにあった。 母は確かに生きていたはずなのに。 誰かと話し、笑い、何かを好み、何かを嫌いながら暮らしていたはずなのに。 その頃の母を知る者には、まだ一人も会えていない。「……その方は、母をご存じなのですか?」「少なくとも、本人はそう言っている」 清雅の答えは慎重だった。「名は滝江。今は嫁ぎ先の姓を名乗っている。六十を少し越えたくらいだ。若い頃、ある家に奉公していたらしい」「ある家?」「そこが、まだはっきりしない」 朔の眉が動いた。「分からないのか」「分からないというより、話したがらない。手紙でも、その家の名は一度も書かなかった」 清雅は手帳を開いた。「……母は、その方のいらしたお家に?」「奉公していた滝江さんが、お母上のお側にいたらしい。正確な立場までは、まだ分からない」 麗香は胸元へ手を当てた。
それから数日、麗香の母について新たな知らせはなかった。 宮中に関わる記録を探る以上、急げばかえって相手を警戒させることになる。清雅からそう言われ、朔も調査を任せている。 その間にも、季節は待ってはくれない。 帝都を薄紅に染めていた桜はとうに盛りを過ぎ、街路を歩けば、枝々には花よりも若い葉の色が目立つようになっていた。「……何をしている」 その日、いつもより早く屋敷へ戻った朔は、庭先に妙なものを見つけた。 敷物。 茶器。 菓子。 そして、それらを縁側から庭へ運んでいる二人。「あら。兄様、お帰りなさいませ」「お帰りなさいませ、朔様」 小夜と麗香だった。「何をしていると聞いた」「お花見ですわ」「見れば分かる」 庭を見渡す。 御影家の庭にも何本か桜はあるが、そのほとんどは既に花を落としている。 ただ一本、庭の奥に植えられた遅咲きの桜だけが、葉の間に淡い花を残していた。 風が吹くたび、一枚、また一枚と花びらが散っている。 あと数日もすれば、それもすべて落ちるだろう。「今年最後のお花見です」 小夜が得意げに言った。「麗香姉様とお話ししていて、せっかくですから最後の桜を見ておこうということになりましたの」「そうか」「兄様もどうぞ」「俺は――」 断ろうとして。 麗香と目が合った。「朔様?」 麗香が不思議そうに首を傾げる。 朔は視線を逸らした。「……着替えてくる」「まあ」 小夜が笑った。「お花見をなさるのですか?」「俺の家の庭だろう」 楽しそうな妹を残し、朔は屋敷へ入った。◇ 軍服を脱ぎ、和装へ着替えて庭へ戻ると、既に茶が淹れられていた。 春







